[ BMWブランドヒストリー 02 ]

駆け抜ける歓びを世界に。
1970 - 2000

“究極のドライビング・マシン”は世界へ。
ディーラーネットワークの拡大とともに、BMWはブランドとして確たる地位を確立していきます。

レース車両の開発を行うBMW M社は1972年設立。
1973年に施工した本社「フォー・シリンダー・ビル」と博物館「ミュージアム・ボウル」。
1973年のフランス現地法人。

基礎を築いた70年代

ノイエクラッセ、2002といったヒット作によって戦後の経営危機を脱出したBMWは今に続くプレミアム・ブランドとしての基盤作りを急いだ。

1971年、質の高い走りをさらに追求するため、ドイツ・ミュンヘン近郊に本格的なテストコースを開設。約67万平方mに及ぶ広大な敷地に7.7㎞の直線路や旋回性能を評価するスキッドパッドなどさまざまな試験施設が備えられた。

そこで得られたデータも踏まえ、モデル展開も固まっていった。1972年にはノイエクラッセの後継モデル、初代「5シリーズ」がデビュー。現在に続く、数字でボディサイズや形状を大別するBMW独自の命名法はこのモデルが始まりとなった。3年後の1975年には名車2002の後継として後の主力モデル・初代「3シリーズ」が登場。今でこそセダンの印象が強い3シリーズだが、当時は2ドアモデルのみで4ドアの登場は1980年代に登場した2代目から。日本でも大いに人気を博した。続く1976年にはラグジュアリークーペの「6シリーズ」、1977年には高級セダン「7シリーズ」と、いまに続くシリーズ構成の初代車種が次々とデビューした。

ラインナップを充実させたBMWは世界展開を積極的に押し進めていった。1972年、BMWとして初の海外生産拠点を南アフリカに設立。続いてアメリカ、中国にも拠点を設立し、現地生産を開始した。相前後して販売ネットワークの構築にも乗り出し、1973年から1981年にかけて、ヨーロッパ、アメリカ、アジアの9カ国に子会社を設立。世界中の自動車マーケットに参入していった。

先駆けとなる日本法人の設立

アジアでもっとも重視したマーケットが日本だ。当時日本ですでに市場に食い込んでいた他の輸入車ブランドも存在していたものの、ディーラーを運営する日本国内の企業が販売と輸入の両方を担うというもので、ブランディングそのものも販売店に依存。お世辞にも市場を大切にしているとは言えなかった。

そんな中、BMWはドイツ本国からの製品輸入を一手に担うBMW100%出資の日本法人「ビー・エム・ダブリュー株式会社」を1981年に設立。ブランドとしての包括的な方針や戦略を策定し、販売を担うディーラーに徹底してもらうことで、BMWの共通した価値の浸透に努めた。

当時の日本市場においてBMWは限られた自動車愛好家だけが知る存在にすぎなかった。誰もが知る高級車としての地位を確立するまでには日本法人独自の施策が必要だった。

そのうちの一つが日本市場向けのローカライゼーションだ。それまで左ハンドルのみの設定だったラインナップに右ハンドル仕様を1985年から追加。その第1号となったBMW318iは日本市場で瞬く間に人気を博し、87年までの2年間で販売台数はほぼ倍増。その後何年にもわたって、売り上げは増大を続けた。当時としては業界で最低だった金利9.5%のローンを導入するなど、ファイナンス面での革新的なサービスの実施も功を奏した。

成功の要因はそれだけではない。独自のディーラー開拓戦略にもある。ディーラー戦略の要としたのは、パイオニア精神と勝負師としてチャレンジを続ける姿勢をもった企業を募ることだ。自動車ビジネスに携わっているかどうかはまったく問題ではなく、各地で強固な地盤を持ち成功している会社に、業種を問わず声をかけて回った。今なおBMW正規ディーラーに輸送業や家具販売業などを主力事業としていた地場企業が名を連ねているのはその名残だ。ビー・エム・ダブリュー株式会社設立から7年余りで正規ディーラー数は3倍まで拡大。1988年には100拠点を築き、日本全国にネットワークを構築するに至った。

ちょうどこのころに設立されたのが、新車整備センター(VPC)だ。どれだけ本国で完全な状態に仕上げても輸入車は長い船旅の間にチューニングが崩れてしまう。加えて、日本の気候や法律に合わせて調整すべき項目がいくつもあった。他の輸入車メーカーはこうした調整を販売店が個別にしていたが、BMWはVPCを立ち上げることによって、新車の点検、整備を一括して行って、効率化を図ったのだ。

さらに、パーツを日本国内に保管しておくパーツセンターを、千葉県に開設した。実は、輸入車で一番の泣き所となるのがパーツの供給である。発注があってから部品を輸入していたのでは円滑なサービスは望めない。国内に潤沢にパーツをプールしておくことは、ユーザーのカーライフを満足させるうえで欠かせないプロセスだった。VPCとパーツセンターの両方を開設することで、ディーラーの活動を支える供給体制が整った。

サプライチェーンの構築が順調に進んだことに加え、バブル景気に後押しされ、1990年代に入るころにはBMWは高級車ブランドとして、日本市場で確かな地位を確立していた。

雌伏の90年代

もっとも自動車業界にとって1990年代は試練のときだった。世界的な景気後退に加え、環境問題への意識の高まりから、自動車は排ガス規制への対応や代替駆動エネルギーの開発が求められるようになり、技術開発費が高騰。合併やブランドの分割など生き残りをかけた再編が加速していく。

BMWもまた、世界中のセレブリティやエグゼクティブから支持を集めるロールス・ロイスと提携。技術的に遅れのあった車両を近代化させたいロールス・ロイスとロールス・ロイスが持つ顧客を獲得したいBMWの利害が一致した形だった。この提携はのちにブランド権を獲得する契機となる。1994年にはMINIやランドローバーなどで知られるイギリスの大手自動車メーカー、ローバーグループを買収し、企業規模の拡大を図っていった。

正規ディーラーもまた苦戦を強いられていた。輸入車メーカーの中には、BMWに遅ればせながらも日本市場を重視して製品力を強化した車種をリリースするところが台頭してきていた。さらにバブル崩壊によって市場が冷え込んだ結果、シェアが低下。業績不振が相次いだ。それでも正規ディーラー各社はアフターサービスを向上させ顧客の流出を防いだり、顧客満足度を向上させて新規顧客を獲得するなど、冬の時代を生き抜く努力を続けた。

開発の視点で見ても、BMWはただ手をこまねいていたわけではないことがわかる。1990年にはドイツ本国に車両開発と技術研究を一手に担うBMWリサーチ&イノベーション・センターを設立。BMWのラインナップ拡大路線の先駆けとなったX5や、代替駆動エネルギー車の電気自動車「E1」、水素自動車「7シリーズH2」を続々と発表し、業界を牽引する車両を生み出し続けた。

混迷を極めた1990年代もBMWは次の時代へ向けて、着々と布石を打っていたのだ。

BMW 1602 Elektro。BMWの電気自動車の歴史は実は72年まで遡る。
第2世代の3シリーズは10年以上もの間BMWの顔だった。
走りの良さに居住性と利便性をプラスしたX5。
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